劇作家・うさぎ庵主宰・渡辺源四郎商店ドラマターグ工藤千夏のブログです。


by nabegen-usagian
 あまりに突然の訃報に、しばらくリアクションできませんでした。劇団員に伝えることも、弔電を打つことも、信じたくない、信じがたい事実を認めてしまうことが怖くて動きたくなかったのです。彼女の笑顔を思い浮かべました。彼女と話したあれこれを思い出しました。一度、二人でじっくり飲んで話したせいでしょうか? 仕事仲間というより、年の少し離れた親しい友人のように思っていました。同じ時期にNYにいたわけではないのに、あの街で何を感じ、何を抱えて日本に帰国したか、これからどう創っていくのか、うんうん、わかるわかると頷き合いました。
 遺された者にできるのは、その人について語り続けること。そして、共に創り続けること。私がお願いしたイカラシさんの仕事は「イカラシチエ子の世界」のほんの一部に過ぎませんが、彼女が生きて、創った証を記しておきたいと思います。心よりご冥福をお祈りします。

*    *    *

 イカラシさんとは、舞台美術家の山下昇平さんの紹介で知り合いました。そのときには直接お目にかかっていないのですが、2007年の青年団リンクうさぎ庵Vol.5『チチキトク サクラサク』(作・演出:工藤千夏)で、小道具や劇中で着替えする衣装を入れる自立する皮製の袋を作って頂いたのが最初の仕事です。俳優が全く退場せずに、道をイメージする舞台空間を囲んで座っています。その椅子の脇に、目立たないように、でも、シンプルな空間にあって美術としてきちんと機能する、蓋はないが近い客席から中は見えない、くたっとならずに自立するという難しい注文をクリア。写真左手前に一つありますが、目立たないというオーダーどおり、この明かりの写真だと全く見えませんね。
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2007年 うさぎ庵『チチキトク サクラサク』ゲネ写真 撮影:田中流



 時間は飛んで、2012年5月、渡辺源四郎商店第14回公演『翔べ!原子力ロボむつ』(作・演出:畑澤聖悟)のとき、作品に登場する双子のロボットの衣装の相談をしました。これは私の最初のスケッチ。イメージはロバート・ウィルソン世界のAラインです。
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 すでに稽古に参加していた舞台美術の山下昇平さんが、なべげんの稽古場で、劇団でストックしていたカーテンをザクザク切ってざっくり稽古用の見本を作ってくださいました。立つ(上の写真)、座る(下の写真)、こんな感じです。
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 これをヘッドドレスも含め、実際に創ってくださったのがイカラシチエ子さんです。厚手のウールの素材選び、袖のデザイン、裾の輪っかを入れて動いたときのドレイプなど、細かなところまで行き届いた作品です。着心地はもちろん、舞台で俳優が衣装として着用してどう見えるかということを、当然ながらきちんと考慮し、芝居に寄与してくださいました。
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2012年 渡辺源四郎商店『翔べ!原子力ロボむつ』 撮影:山下昇平


 フェスティバル/トーキョー14 渡辺源四郎商店『さらば!原子力ロボむつ ~愛・戦士編~』(作・演出:畑澤聖悟)では、ロボット衣装黒バージョン追加の他、ベースになる各人のジャージに合わせてプラスする、リンゴ王国/イカ帝国の人々の衣装も創って頂きました。
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F/T14 渡辺源四郎商店『さらば!原子力ロボむつ ~愛・戦士編~』撮影:松本和幸
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F/T14 渡辺源四郎商店『さらば!原子力ロボむつ ~愛・戦士編~』撮影:松本和幸


 さて、こちらは、2014年3月初演の津軽ふるさと創成劇『鬼と民次郎』(作・演出:畑澤聖悟)のために、イカラシさんがデザインしてくださった衣装です。青森県鬼沢の鬼伝説と義人・藤田民次郎(1792〜1814年)の生涯を組み合わせた物語で、ある種の時代劇なのですが、リアルな農村のイメージではなく、鬼沢獅子踊りとマッチする様式美の世界を追求しました。
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写真:特定非営利活動法人あおもりふるさと再生機構

 プロトタイプとして、まず、以下の上下を送ってくださいました。
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 さらに、それを歴史と伝説の里「鬼沢の会」や市民劇参加のキャスト・スタッフのみなさんが縫いやすいよう、プランを修正してくださいました。上着の丈をもっと長くして、役柄を変えられるようフードを付けるデザインに変更提案してくださいました。
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 自得地区環境保全会 (青森県弘前市)は、『鬼と民次郎』の上演を含む様々な取り組みで、歴史と伝説を地域ぐるみで継承して発展し続けるむらづくりが評価され、平成26年度天皇杯むらづくり部門を受賞しました。初演のあとも、貴田千代世氏の演出で、同じ衣装や美術が引き継がれ、鬼沢地区の新しい伝承芸能として再演が重ねられています。

*   *   *

 最後のこの写真。2013年9月、四谷のCROSSROAD GALLERYで開催されたイカラシチエ子 展「ここ」にて。小さな空間のために作られたインスタレーションの中に、イカラシさんにも入ってもらって撮影したものですウエディングな短編戯曲のリーディングが似合いそう、一本書きたい、というようなお話もしました。ミシン一台抱えて、青森のアトリエに来ていただき、稽古を見ながらガンガン衣装を縫っていくジャズセッションみたいな作り方も面白いね、っていうようなお話もしました。これから、まだまだいろんな創作をご一緒するはずでした。こうしてお願いしたお仕事を振り返ってみると、全然やり足りない、もっともっといろいろな芝居でご一緒できるはずだったのに。悲しみとともに、怒りにも似た感情が襲ってきます。こんな訃報、きっと、なにかたちの悪い冗談です。なにかの間違いなのです。あなたは新潟にいて、なかなか会えないけれど、ソーイング・アーティストとして素敵な作品を作り続けているのです。私は、これから先も、芝居の衣装を考えるとき、イカラシさんにお願いして創って送ってもらおう、と、性懲りも無く言い続けることでしょう。イカラシさん、連絡してもいいですよね? 
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 イカラシさんが、東京から新潟に居を移してから取り組んでいた仕事は、舞台衣装に止まらず、布と裁縫の技術を用いたアートに近づいていました。私自身の気持ちに整理をつけるために、彼女と一緒にした仕事を振り返っていたら、ソーイング・アーティストということばを思いつきました。「ソーイング・アーティスト イカラシチエ子の世界」、読んでくださってありがとうございました。

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# by nabegen-usagian | 2017-04-17 08:45 | OTHERS
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 第9回となるこの高校演劇山梨オープン小劇場祭、これまでタイミングが合わず、実は伺うのは初めて。『マナちゃんの真夜中の約束・イン・ブルー』のマナちゃんこと那須愛美さんが聞き手という、なんとも豪華な幕間トークをさせていただいた。あとで思ったこともいろいろあるので、ブログでも。

 まず、競技であるコンクール上演と、競技ではないフェスティバル上演の両方の機会があることが、演劇をやっている高校生にとってとても贅沢で素敵なことだと改めて思った。理由はいくつもある。演じる機会が一回でも多い方がいいから。時間を置いて上演するために、その芝居に向き合い直すという稽古がとても大事だから。あるいは、全く違う芝居に取り組むチャンスにもなるから。大劇場と小劇場の両方で演じてみると、その違いはとても面白いから。観客を迎えるという経験が大会とは違う経験だから。

 では、上演された作品について。講評ではなく、感想です。


山梨県立甲府南高等学校『歩き続けてときどき止まる』
作:中村勉
演出:山岸優希 石原尚子

 この作品が観たくて、山梨行きを決めた。見応え十分。中村勉ワールド全開。
 「思考」について考える。歩きながらなにかを考えていると、考えはつながっているけれど論理的な思考とはちょっと違う。しりとりしているみたいに、イメージがころがっていく。ときどき途切れたり、飛んだり。そんな感じでシーンが流れていく。コミュ障の相談の中で、「会話は続けば中身なんかどうでもいい」という話が出てくる。本当にそう思っているようでもあり、ちっともそうは考えていないようもでもある。淡々と続いていく会話は逆説的にも響き、観客は迷路を進むようにゆっくり手探りで歩んでいく。低体温の、決して熱くならない高校生たち。つながって、ころがって、さらさら流れていく時間。語る「わたし」も、ころがって、変わっていく。芝居も、芝居の中の彼らも、まさに歩き続けている。
 私はたゆたうような、構成を感じさせない流れるような構成のこの芝居が好きなのだけれど、三好達治の詩以外に、もう1本なにかしら補線を引いてあげたら、そのたゆたいを楽しめる観客の数が増えるだろうか?



山梨県北杜市立甲陵高等学校『ナイゲン』
作:冨坂友(アガリスクエンターテイメント)
潤色:入山実と甲陵高校演劇部
演出:波多野伶奈

 開演直前に当パンフレットを開いて、あれ、アガリスクエンターテインメントってどこで聞いたんだっけ・・・と、気になりつつ、幕間トークのときにはわからなかった。勉強不足を恥じる。
 なので、「元々の作品では、大人が高校生を演じていた」ことを知らずに、観劇の最中には『七人の部長』や『生徒総会』と比べていた。本当は、その比較は間違っているのだと思う。

 潤色作品を講評するとき、本当はどんなエッセンスを抽出したかを判断の基準にしたい。だが、元の戯曲に触れたことがない場合は、目の前で繰り広げられている世界でしか判断できない。そして、あらゆる芝居に精通していることなんか不可能なのだから、結局、今ここで観ている芝居についてしか論じられない。その限界と矛盾。「等身大高校生の青春もの」として高校生が演じる芝居と、大人が敢えて「高校生を演じる」芝居は違うはずなのだが。

 今回の『ナイゲン』は、高校生が高校生役を演じている。元の戯曲にあったはずのもっとねじ曲がった部分や、大人が演じることによってカリカチュアされたはずの部分が、すなおに、きれいになってしまったのではないだろうか。しかし、それは私の想像でしかない。文化祭をクローズではなくオープンで行うために、学校から(体制側)から押しつけられた条件をのむか、のまないかというストーリーは、エンタメ志向の大人が演じたときにどの程度重要だったのだろうか? トークでも話した、「ここで描かれている高校生の恋愛はリアルではないのでは?」という私の違和感は、大人目線の脚本だからだったのか?

 いずれ、私のこんな考えすぎの感想や、そもそもの戯曲の意図など超えたところで、高校生パワーが爆発することが上演の成功の鍵だと思う。スクエアに会議机で囲んだ会議のしつらえがぶっ飛ぶくらい、もっと熱く、もっと騒がしく、すべてを笑い飛ばすパワーでまた上演して欲しい。
 


都立世田谷総合高校『生徒指導‘17』
作:せたそー演劇部+岡崎恵介

 カーンと終わった。40分、あっという間の面白さ。年齢の違わない高校生が教員も高校生も演じることによって、人間のみにくい部分やだめな部分は同じなんだ感がぐっと強まる。舞台美術の散らかった紙のような、ストレスが積み重なった日常。それでも踊る。それでも生きる。
 大人の描きかたはまだまだ甘いのか。もっとドロドロした人間関係が欲しくなる。(そんなドロドロ好きではないのだけれど、この芝居では、そこがもっと観たくなる)いわゆる教育的ではない展開。もっとやれ、どんどんやれ、と、思う。
 ちなみに、2016年12月の東北大会では、小名浜高校の『遭難、』(作・本谷有希子 潤色・安井宏)の上演があった。高校演劇の世界、皆が思っている以上に挑戦的だ。



山梨県立甲府南高等学校『二万年の休暇、その終わり』
作:中村勉
演出:田中里歩
 
 改めて、いい作品だなぁ。夏休みは、始まる前から終わりを感じさせる。あんなに長かったはずなのに、必ず、夏の終わりが待っている。人生みたいだなぁ。
 「さよなら、また会お」の歌、今も私の中でリフレインされている。

 
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 半日で4本。リップサービスなしでどれも面白く、とてつもなく充実した小劇場祭であった。3月は、全国各地で演劇部自主公演やフェスティバルが行われている。同日(前日も)、青森の渡辺源四郎商店2回稽古場で「中学生・高校生のための高校演劇見本市Ⅳ」が開催されていて、青森中央高校演劇部による『マナちゃんの真夜中の約束・イン・ブルー』(作:中村勉)も上演されていた。北海道北見では、新井繁先生の演劇集団玉葱倶楽部第9回公演「千里だって走っちゃう」も上演されていた。体がいくつあっても足りない。
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# by nabegen-usagian | 2017-03-29 16:12 | THEATRE

SARP vol.12 『くちきかん』

ゲネ写真と備忘メモで振り返ります。

SARP vol.12『くちきかん』
【作・演出】工藤千夏
【出演】 松田諭人 青田夏海 氏原恭子 池瑞樹 伊藤快成 高橋なつみ 谷口継夏 橋本潤 鉢峯輝敏 竹葉香里 西原侑呂
2017年2月5日〜10日@ノトススタジオ
【主催】四国学院大学

<トークゲスト>
5日=黒瀬貴之(広島市立沼田高校演劇部顧問/中国高等学校演劇協議会理事)
6日=西村和宏(ノトススタジオ芸術監督)
7日=新谷政徳(高松桜井高校演劇同好会顧問)
8日=中桐康介(西日本放送アナウンサー)


四国学院大学 アーティスト・イン・レジデンス プログラム(通称SARP/サープ)とは、四国学院大学の身体表現と舞台芸術マネジメント・メジャーが主体となって制作する公演の名称です。毎回プロの演出家・振付家が大学内の宿泊施設に1ヶ月以上滞在し、学生キャスト・スタッフとともに一般観客の鑑賞に耐えうるレベルの高い舞台作品を創作し上演することを目指します。
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<戯曲と演出について>
 戯曲『くちきかん』では、劇作家、小説家、エッセイスト、名編集者、映画プロデューサー、政治家として多方面に才能を発揮したマルチクリエイターにしてメディア王の菊池寛の生き方や、戦時下・戦後の彼の発言を通して現代の日本を描こうと考えた。「センテンススプリング」に代表される現代のメディアが「くちきかん」氏を取材していくという枠組で、評伝劇ではなく、不条理テイストの現代劇として描く。

 主な役柄は、くちきかんサイドとメディアサイドの2陣営。くちきかんサイドは、くちきかん本人、愛人、妻、親友アクタガワ、親友ナオキ、友人クメ、マント事件当時の恋人サノ。くちきかん本人は、敗戦時に何を考えていたかのエッセイを読むクライマックスまで一言も口をきかない必要があるので、いろいろ説明することができる若いときのクチキくんも登場させる。
 くちきかんを取材するメディアサイドとして、現代の報道の姿勢に疑問を抱いているジャーナリストを一人設定。彼の職場の上司である編集長、彼の先輩記者はメディアのあり方に疑問を持たず、理想に燃えるが故にうまく取材できない彼を歯がゆく思っている。メインの役柄を演じていないシーンでは、全員がメディア側としてくちきかんを取材したり、糾弾したりする。

 また、最も重要なのは、登場人物に明記されていない「大衆」である。俳優たちが実際に大衆を演じるシーンは二つ。くちきかんの講演の一言一句に熱狂する徴収(その講演で語られる言葉は聴衆役の人々が発する)と、クライマックスで「くちきかん役を演じる学生・松田諭人」が敗戦時の菊池寛のエッセイを読み上げるくだりで、学生たちは「松田」の話を聞かずにカラオケに興じるシーンのみ。くちきかんが見据えている大衆、現代のメディアが常に意識している大衆は、この『くちきかん』という芝居を観ている観客が、自分もその一員だと感じてくだされば成功である。

 取材する側の「人間・くちきかん」に対する興味がストーリーをひっぱり、観客の興味の軸となる。くちきかんの人物設定、発言、エピソードはすべて資料にあたり、菊池寛本人のものを用いた。エピソードに事欠かない人物で、芝居に登場させることができなかった話もまだまだたくさんある。

 『くちきかん』は、四国学院大学でパフォーミングアーツを学ぶ学生たちと共に創る、2017年2月でなければ生まれない芝居を目指した。だから、一番流行っている(つまり、流行遅れになる運命を抱えている)音楽とダンスを躊躇することなく導入し、「ここはノトススタジオですが、それが何か?」と開き直ってパイプ椅子以外の舞台美術を排し、ノトススタジオのレンガの壁を強調した。演技者として発展途上の学生が演じるからというエクスキューズではなく、四国学院大学の学生が演じているというメタが重要だと考えて、自分の名前を名乗って菊池寛についてスピーチする(テキストは本人が書いたものではない)シーンを作った。そして、授業の一コマみたいな一見退屈なシーンから、くちきかん役の俳優が芝居が始まってから初めて口をきき、クライマックスの演説に持っていくという流れを作った。

 観終わったら、菊池寛と演劇がきっと好きになる。

 宣伝コピーにそう書いたけれど、お客さまより誰より、創り終わった私自身が、菊池寛と演劇がますます好きになった。菊池寛の実際のエピソードを置き換えて、二十歳前後のがむしゃらな俳優たちとシーンを作っていく作業は、本当に楽しかった。菊池寛が二十歳だった頃、何を考えていたのかに思いを巡らした。自分が二十歳の頃、何に夢中だったのか何にイライラしていたのか思い出した。芥川や直木のような文豪も、メディア王である菊池寛本人も、メディア王の周りの人々も、つまり、昔の人も今の大人も、誰もが二十歳の頃は若かったのだ。みんなキラキラしていた。今まさに二十歳の彼らみたいに。だから、この芝居自体もキラキラ輝いていなければならない。

 善通寺まで観に来てくださったお客様、サポートしてくださったアドバイザーの西山和宏氏、小島塁氏、カミイケタクヤ氏、このような機会をくださった四国学院大学、そして、一緒に芝居を創ってくれたキャストとスタッフに心から感謝します。

 舞台写真は、ゲネ時に四国学院大学のカロル・ドナルド教授が撮影してくださいました。ありがとうございました。
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0場。開場後開演前の時間。俳優はフリートークで『父帰る』の銅像の真似や、『父帰る』について知っていること、知らなかったことなど雑談。菊池寛をモチーフにした演劇世界へのゆるやかな導入。
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0場の最後はプロローグのダンスの立ち位置へ。ゆるやかに準備して、雑談の続きの泣きのポーズから、いきなり踊り始められるように。
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音楽とともに、いきなりキレッキレのキラッキラで、恋ダンス! 楽しい。踊っていて楽しいのがビンビン伝わるように。
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曲が終わる。くちきかんが一歩踏み出すと、いきなり取材陣に囲まれる。熱愛発覚。しかし、当然ながら、くちきかんはノーコメント。何もしゃべらない。
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取材陣は、愛人小夜子を見つけてインタビュー。小夜子という名は、菊池寛の愛人騒動時に菊池寛が中央公論社に寄せた抗議の手紙を、中央公論社が勝手に掲載した『僕と「小夜子」の関係』から。小夜子「事務所通してくださーい」
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取材陣は、さらにくちきかんの妻カネコの元へ。取材中のハチミネ記者は、カネコ夫人の神対応に感動。一方小夜子は独占手記を発表。今回は基本的に縦長に舞台を使うのだが、取材陣が取材対象を追いかけ回すこのシーンはノトススタジオを素舞台で使用する際の縦長感を堪能。
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編集部に戻って、人間の本質も社会もメディアも何もわかっていないとアオタ編集長とイケ先輩に説教されるハチミネ記者。上手、下手脇に座っている俳優たちも出版社で働く人々や、ハチミネ記者が説明するシーンの再現等を演じ続ける。
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くちきかんの徹底取材をとりつけたハチミネ記者は、その生い立ちから追おうと、若き日のくちきかんにインタビューを始める。若き日のくちきかんの登場は、あの音楽とともに「ヒロシです」。
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本質に迫ることのできないハチミネ記者はおろされ、代わりにイケ先輩記者が、一高時代の「マント事件」について取材を進める。このシーンで、時空のねじれを簡単に説明しつつ、芥川龍之介、直木三十五との友情にも触れる。いわば「くちきかん〜青春篇〜」である。「マント事件」は、菊池寛が友人サノの罪(別の学生のマントを勝手に質屋に入れる)を被って、卒業直前に学校を退学した事件。
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くちきかんの実家の経済状態が「マント事件」や人格形成全般に深く関わっているというハチミネ記者の仮説から、縁日のエピソードへ。冗談でとんでもなく安くねぎったら、その金額で売ると言われ、そのねぎった金額さえも持っていなかったという実話。次の幻想シーンにつながるよう、リアルな縁日ではなく、くちきかんが得意の英語を使う不思議な市場の風景。
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縁日で店主に追いかけられる若き日のくちきかんに追いかけられる、成人してからのくちきかん。成人してからもずっとトラウマに追いかけられるている悪夢のようなシーン。俳優たちは、自分のお金の使い方や貸し方に関わる菊池寛の実際のコメントを発する。稽古時にはこのシーンを「カフカ」と呼んでいた。
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悪夢から覚めたくちきかんの成功と幸福を描くシーン。マスコミが家族写真や、芥川や直木との座談会のためにくちき家を訪れ、くちきかん以外の人々の会話によって、撮影の中で業績やカネコ夫人とのなれそめが語られる。ラスト近くにも登場するくちきかんの長女、長男の子供時代でもある。
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くちきかんの成功を描くシーンその2。くちきかんの戦前の講演会。熱狂する聴衆役の俳優が菊池寛の講演のテキストを発する。講演内容は非常にリベラルである。
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講演会終わりの雑踏。ハチミネ記者は他の男と歩いている小夜子に偶然出会い、インタビューを申し込む。別れた男のどんなところを愛していたのかを質問され、イライラする小夜子。
小夜子「終わり。もういいよね。(今の恋人の方へ)おまたせ」
ハチミネ「人って、どうして、好きになった人を嫌いになるんでしょうね?」
小夜子「・・・」
ハチミネ「小夜子さん、愛ってなんですか?」
小夜子「あんた、ばか?」
ハチミネ「・・・」
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敗戦後のセンテンススプリング社解散とくちきかん引退の記者会見シーン。記者役の俳優は客席通路から挙手し、客席で立ち上がって質問をする。舞台側には、風邪で声の出ないくちきかん、くちきのコメント代弁する司会進行、センテンススプリング社社員(そのあと社名を引き継いでいく)として、アオタ編集長、イケ先輩記者、ハチミネ記者が俯いている。菊池寛の戦時中のエッセイを引用し、記者たちはくちきかんの戦争責任を追求する。
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ノーコメントを繰り返すくちき側の対応に怒って、客席から会見者たちの近くに押し寄せる記者たち。ハチミネ記者のセンテンススプリングへの不利な発言をきっかけに、素に戻ったように振る舞い始める。え、なんだったの? じゃ、座談会やろう的な雰囲気で、あたかも、この芝居のまとめのように、自分の学年と名前を名乗り、菊池寛について自分が知っているエピソード、感想などを話し始める。
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10名の学生が話し終え、最後にマイクが回ってきたのは、くちきかん役の松田。
松田「四国学院大学四年の松田諭人です。あのぅ、すみません、この芝居始まって、今、初めてしゃべったんで、ものすごい緊張してます。えーっと、タイトルロールっていうんですか? 主人公の名前が題名になってるやつ。ハリー・ポッター、みたいな?」
(他の人々、タイトルロールの作品名をいろいろ言う)
松田「クレヨンしんちゃんみたいな? 最初に台本渡されたとき、すげーって。くちきかんじゃん、俺って。で、なんか、なんですけど、ずーっとセリフなくて、あ、ま、くちきかんだから仕方ないのかなって、あ、みんなより楽なんですけど、はい。菊池寛には実際に「くちきかん」っていうあだ名があったそうで、勝負事で負けたり、気に入らないことがったりすると、くちをきかなかったそうです。あ、汽車に乗って、入れ歯をなくして、乗ってる間じゅうずーっとしゃべんなくて、降りるときに、靴の中に入れ歯があったっていうエピソードもあったりして。はい、そんな感じで。
「文藝春秋」は、一九四五年の終戦の年にも、一月号、二月号、三月号ってがんばって出してて、さすがに四月からは出せなくって、でも、なんと、十月二十四日発売の十月号からまた出してるんですね。で、菊池寛は毎号、編集後記みたいなエッセイを連載してて、あ、そのエッセイ、戦争に負けてすぐのエッセイ、読みます」
松田、菊池寛の「其心記」を朗読し始める。松田以外の人々は、最初は聞いているが、だんだん飽きて、こそこそとカラオケに行く相談をはじめ、松田を残してカラオケボックスに行く。部屋に入る、注文を確認して注文する、歌を入れる、歌う、騒ぐなどカラオケボックスで楽しむ様子をマイムで。
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<残念ながら、クライマックスのカラオケボックスの人々と、松田の朗読の部分の写真がありません>

そして、シーン14「カラオケの片付け」へ。

【SE】カラオケボックスの電話が鳴る
カラオケに興じる学生の一人、電話に出る。
「はい・・・(みんなに)延長する? (延長しないという反応を受けて)延長しないです。はい。はい」
電話を切る。
電話に出た人「終わりー。本日終了。はい、撤収ーっ」

カラオケボックスの人々、以下のセリフを言いながら、返事をしたり、しながら椅子を片付け、シーン15の体制へ。
ハチミネ「To be or not to be. That's the question.」
イケ「なに言ってんの?」
ハチミネ「生か、死か。それが問題だ」
イケ「今、関係ないでしょ、それ」
ハチミネ「クチキか、キクチか。それが問題だ」
アオタ「それ、問題じゃないから」
  (全員総ツッコミ。)
イトウ「じゃ、芸術か、生活か。それが問題だ」
タニグチ「ゲイか、女好きか。それが問題だ」
ハシモト「純文学か、大衆文学か。それが問題だ」
ウジハラ「右翼か、左翼か。それが問題だ」
タカハシ「愛か、金か。それが問題だ」
アオタ「合理主義者か、ケチか。それが問題だ」
タケバ「努力家か、遊び人か。それが問題だ」
ウジハラ「優しいのか、冷たいのか、それが問題だ」
ニシハラ「真面目か、不真面目か。それが問題だ」
ウジハラ「デモクラシーか、ファシズムか。それが問題だ」
イトウ「好きか、嫌いか。それが問題だ」
ハチミネ「協力か、抵抗か。それが問題だ」
アオタ「善か、悪か。それが問題だ」
タカハシ「両義的か、あいまいか。それが問題だ」
ハシモト「生か、死か。それが問題だ」
クチキ「To be or not to be. That's the question.」

【SE】教会の鐘の音(死のイメージ)

鐘の音で死亡フラグが立ったところで、くちきかんの臨終シーン。終戦後、公職追放に合った菊池寛が一度倒れ、自宅で全快祝いを開催中、本人はダンスをしていて倒れてそのまま亡くなったというエピソードを再現。
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菊池寛の死後に見つかった絶筆を、周りの俳優たちが語る。
私はさせる細分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。死去に際し、知友及び多年の読者各位に厚く御礼を申します。ただ皇国の隆昌を祈るのみ。吉月吉日 くちきかん

全員、手で顔を覆い、激しく泣き始める。顔を覆うポーズがそのまま、ダンスの最初のポーズになっていく。
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エピローグです。全員が冒頭のようにキレッキレで「恋ダンス」を踊る! 中央で亡くなっていたくちきかんも、ゆっくり立ち上がって一緒に踊る!
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<キャスト>
クチキカン、他               松田諭人
若き日のクチキカン、マスコミ1、他     竹葉香里
クチキカンの愛人・小夜子、マスコミ3、他  氏原恭子
クチキカンの妻・カネコ、マスコミ5、他   高橋なつみ

アオタ編集長、マスコミ7、他        青田夏海
女性記者イケ先輩、マスコミ9、他      池瑞樹
男性記者ハチミネ、マスコミ10、他      鉢峯輝敏

クチキカンの友人クメ、マスコミ2、他    谷口継夏
クチキカンの友人アクタガワ、マスコミ4、他  橋本潤
クチキカンの友人サノ、マスコミ6、他     西原侑呂
クチキカンの友人ナオキ、マスコミ8、他    伊藤快成
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<宣伝美術 チラシ表面>
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<宣伝美術 チラシ裏面>
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<記念Tシャツ>
題字:金城七々海  イラスト:池瑞樹  コーディネイト:山地彩
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# by nabegen-usagian | 2017-02-23 16:47 | THEATRE
 SARP vol.12『くちきかん』は、菊池寛をモチーフに四国学院大学の学生のために書き下ろした現代劇である。そもそも、主人公はクチキくん。評伝劇とは言い難いうさぎ庵流のねじれた芝居なので、菊池寛をもっとよく知るためにも、菊池寛が書いた戯曲に対峙する機会があった方が良いと考え、この「菊池寛戯曲リーディング」を企画した。

 たとえば、『くちきかん』には以下のようなセリフがある。(ここだけ読むと普通の評伝劇みたいに見えるが)

アクタガワ★だってそうでしょ。クチキが新進作家として文壇的地位を確率したのは、ルミコちゃんが生まれた年だし、そのあとは、「怨讐の彼方に」でしょ?「藤十郎の恋」でしょ? いやぁ、猿之助の「父帰る」、本当によかった。

ナオキアクタガワ、おまえ、泣いてたやん。

アクタガワ泣いてないよ。

ナオキえー、泣いてたやん。

アクタガワああ、泣いたとも。まさか、クチキの芝居で泣くなんて思ってもいなかったよ。

ナオキ新聞小説「真珠夫人」の大ヒットもカネコさんのおかげやな。

カネコだから、私はなんにもしてませんって。


 せっかくの機会だから、こういう芝居の中身を知っている方がいいと思ったのである。『くちきかん』出演者は11名だったので、オーディションを受けにきてくれたすべての学生にSARP vol.12に関わってもらいたいという気持ちもあった。

 公演日程が2017年2月5日から10日の6日間だったので、以下の6作品を日替わりで上演することにした。
『藤十郎の恋』
『屋上の狂人』
『真似』
『時勢は移る』
『海の勇者』
『父帰る』
 菊池寛は多作で、そのジャンルも幅広い。『怨讐の彼方に』は諸事情で断念した。せっかく香川でパフォーミングアーツを学んでいるのだから、今後も他の戯曲リーディングや上演に挑戦してもらえたらうれしい。ちゃんと読んでみると、菊池寛はなかなかに面白いのである。


『藤十郎の恋』
1919年初演。元禄時代の実在の歌舞伎役者坂田藤十郎が主人公。芸を磨くための偽りの恋の顛末は・・・。再発見された幻の初期戯曲、小説、森田痴雪による潤色台本、潤色を元に菊池本人が再執筆した戯曲(本篇)の4種類がある。

<出演>千田萌 森田恭矢 青木奈緒 宇垣一茂 池瑞樹 野久保美紅 山内せれい 山地彩 大森那津実 竹葉香里 中村歩実 ※『藤十郎の恋』に出演予定だった青木奈緒は、健康上の理由により降板、中村歩実が代読しました。

<演出コメント>出演者も多く、今回一番手強かった戯曲。今回の稽古期間では、歌舞伎のバックステージものを演じるための引き出しのなさを克服することはできなかった。花組芝居で上演してくれないかなぁ。想像して、一人でゾクゾクしている。

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『屋上の狂人』2/6
1916年5月『新思潮』に発表、21年帝国劇場で14世守田勘弥、2世市川猿之助らが初演。人間の幸不幸を主観で捉え直そうという、菊池寛テーマ戯曲の代表作。

<出演> 池田友里 近藤丈雅 谷口継夏 山地彩 大森那津実 氏原恭子 三好樹里香 ※『屋上の狂人』に出演予定だった柿岡唯、森田恭矢は、健康上の理由により降板、代わりに氏原恭子、橋本潤が出演しました。

<演出コメント>「脚立」を使用するというワン・アイディア。高さと屋根イメージの三角ビジュアルで、作品世界への到達度がぐっと上がった。心を病んだ家族にどう対応するかという話なのに、驚くほどユーモラスでポジティブ。その前向きさと明るさが伝わるように。

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『真似』2/7
フランシスコ修道会を創設したアッシジの聖フランチェスコを題材にした作品。信仰とは?人間の欲望とは?救いとは?1924年「新潮」1月号に発表。大正期に人気のあった切支丹物の系譜の作品。

<出演>内田沙也加 青田夏海 荒川真由 高橋なつみ 白石桃菜 中村歩実

<演出コメント>外国を舞台にした宗教劇。寓話的色彩を強く打ち出し、描かれている宗教観とピュアさをカリカチュアするために、あえて、「なんちゃって人形劇」に作る。女性だけのチームだったので、とにかく、かわいらしく。

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『時勢は移る』2/8
激動の幕末、武士たちの生き方を変える流れは、ある父と子に対立をもたらし・・・。菊池寛は三幕構成で時勢の推移を描きたかったが、序幕のみを一幕物として完成させ、1922年発表。1924年上演。

<出演>内田沙也加 千田萌 近藤丈雅 橋本潤 西原侑呂 藤本紗綾

<演出コメント>バリバリの時代劇。小細工せずに、ラジオドラマのようにしっかりと読み込んでもらった。中年の年齢の役は、その年らしく演じることより、その人物の気持ち優先でつくる。難しい長ゼリフも多いが、緊張感のあるシーンもきちんと緊迫。

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『海の勇者』2/9
京都帝国大学卒業後の1916年7月『新思潮』に発表。土佐にある小さな漁村。嵐の夜、難破しそうな船の情報が入る。かつて、難破船を助けるために長兄を失くしたその家では・・・。

<出演>青木奈緒 宇垣一茂 氏原恭子 池田友里 野久保美紅 鉢峯輝敏 山内せれい

<演出コメント>長男をすでになくしている母親の悲しみと、それでも生きていくための強さは、明るさに裏打ちされている。笑いながらセリフを言ってとか、漫才みたいにやりとりして、とか演出しながら、スピーディにクライマックスの嵐に持っていく。

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『父帰る』2/10
時は明治40年頃。家族を捨てて出奔していた父が、20年ぶりに戻ってきた・・・。1917年に発表されたのち、1920年に2代目市川猿之助が演じて絶賛され、菊池寛の代表作となる。

<出演>松田諭人 伊藤快成 山川香菜 横山智恵里 白井誠也 田中千晶

<演出コメント>ご存知!父帰る、なのだが、意外とディテールは知られていない。しっかり会話をきかせるために、細かく心理描写を。そのために「家に帰る」「家から外に出る」「玄関で話す」をしっかりビジュアルで見せる。弟が帰ってくる、妹が帰ってくる、そして、20年ぶりの父親が帰ってくるという戯曲上の三段階の積み重ねを、動きつきで。結果的に6作品で一番動きのある演出になった。

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ラップ外郎売
キャストの入退場のBGMに「ラップ外郎売」(作曲・歌:高坂明生)をかける。そもそもは、渡辺源四郎商店の「オトナの高校演劇祭」のテーマソング。大学生の俳優が、菊池寛の古典戯曲に取り組む企画なのでぴったりだと思ったのだ。ト書きを読む俳優が「幕」と言った途端に、この音楽が入る。ぬるぬるしないで、さくっとおじぎをして、スタスタ退場する。良い。ノトススタジオに毎日アキオの歌が流れている、というのも、ちょっと不思議で、良い。
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# by nabegen-usagian | 2017-02-13 02:47 | THEATRE
第40回全国高等学校総合文化祭
2016ひろしま総文 演劇
8月1日〜3日@JMSアステールプラザ
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 全国大会で12本の高校演劇作品を観劇した。備忘のため感想を記す。今大会の審査員ではないのでこれらは講評ではないが、いわゆる劇評でもない。演劇部のみなさん、顧問の先生、関わった高校演劇関係者に伝えたいメッセージを含んだ感想文である。
 ここで上演した12校は、ここで上演できなかった全国の演劇部の代表である。それぞれがそれぞれの作品を作って観せてくださったことへの感謝、全国大会という場で上演できたことへのお祝い、そして、これからも演劇を好きでいて欲しいという願いを込めて、私もじっくり12本に向き合ったつもりである。おつかれさまでした。それぞれに色も思いも違う、すばらしい作品を観劇できて幸せでした。
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8月1日(月)
●上演1
広島市立沼田高等学校「そらふね」黒瀬貴之/作

 強い「やさしさ」に支えられた、凛とした原爆劇であった。母親も、成長してからの姉妹も、見守ってくれている隣のおばちゃんも、皆、芯の強い女性だ。受容できるはずもない被爆という恐ろしい体験を受け止め、自分よりもお互いを気遣う姿は本当に美しく、生き続けるために必要なのが「憎しみ」ではなく「やさしさ」であるという思いが、まっすぐに伝わってくる。

 名作『父と暮らせば』(井上ひさし)のように少人数のキャストでドラマを掘り下げる手もあったろうが、それを選ばず、おそらく部員のほとんど全部が出演したであろう「そらふね」を物語るミュージカル・シーンは、この作品において最終的に正解なのだと思う。子供、若い娘、おばちゃんというキャラ分けを、類型を恐れず、とことんわかりやすく演じたことも結果として効果的だった。演劇的なたくらみを排除し、作為を感じさせなかったことによって、作品世界のイメージと方法論が一つになった。

 1本目という上演順は偶然だと伺ったが、広島で開催された全国大会の幕開きに、原爆をテーマにした、ナチュラルな広島弁(しかし、今2016年に高校生が普通に話していることばではないだろうが)のこの芝居を拝見できて、身が引き締まる思いだった。まさに、広島大会オープニング作品だ! 静かに、淡々とこの芝居を演じてくれるだけで、平和への思いは強く浸透する。
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●上演2
青森県立青森中央高等学校「アメイジング・グレイス」畑澤聖悟/作

 『アメイジング・グレイス』は、青森中央高校演劇部が青森大空襲の日のイベントで上演をする『7月28日を知っていますか?』という生徒創作の作品がベースになっている。2015年に、青森空襲を記録する会や自分たちの祖父母、その知人に取材して作り上げ、2年目となる今年も要請されて上演したという。
 戦時中には全国各地で空襲があり、それぞれの地で多くの方が亡くなられているのだから、空襲をメジャーとかマイナーとかいう尺度で語るのは馬鹿げている。だが、愚かしいのは承知で書けば、青森空襲はマイナーだ。そして、そのマイナーさが、『アメイジング・グレイス』という新たな芝居を作るときに、青森空襲そのものをダイレクトに伝えるのでなく、戦争を、反戦への思いをどうしたら描けるかを徹底的に考えさせ、普遍性を獲得するに至った。

 侵略、歴史の改ざん、難民問題、ヘイトスピーチ、差別が1時間にぎゅっと凝縮されている。それらの解決の糸口になるのは、鬼と人間という人種(鬼種)の垣根を越えたサチコとトモカの友情である。これは希望だ。安易に手にいれることのできない、だが、確実にあるはずの希望だ。
 希望をもっとわかりやすく提示すれば、『アメイジング・グレイス』はもっと愛される作品になっていただろう。だが、その道を選ばなかった覚悟を、私は評価したい。戦争を描くということは、広島で爆撃のシーンを演じるということは、そういうことだと私は思う。

追記
青森空襲を記録する会
http://aomorikuushuu.jpn.org/kuushu.html

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●上演3
静岡県立伊東高等学校「幕が上がらない」静岡県立伊東高等学校演劇部・加藤剛史/作

 高校演劇への挑戦状のような芝居である。こんな高校演劇は今までなかったでしょ? という、気概に満ちている。その挑戦もまた、高校演劇である。こういう芝居も包括できるからこそ、高校演劇は面白いと私は思っているのだが、とにかく、これだけ議論を呼ぶ、議論したくなる芝居に出会えてよかったという前提で筆を進める。

 観客席を演技スペースとして使用するという選択は、「1,200人の観客のすべてがセリフを聞き取れる、演技の全貌が観て取れるように演じる」ということを端から断念し、むしろ、それに背を向けるアナーキーさにこそ価値があるという企画意図による。意図的にそうしている以上、審査員以外の人間が、聞こえる、聞こえない、見える、見えないということを評価軸として問題にしてもしょうがない。幸運にも小劇場的至近距離で演技に拝することができた観客と、何をやっているのか全く情報を得らえず、1時間集中することができなかった観客の反応に差異が生じることも想定内なのだから。それも含めて、どう評価されても構わないという姿勢が、最も物議を醸すポイントだと思う。

 さて、戯曲について。加藤剛史コーチのナンセンス、リズム重視のセリフの羅列のふりをした戯曲は、とても緻密に書かれている。緩急、硬軟取り混ぜて、チェーホフ、シェイクスピアからクドカンまで演劇的イメージを、ときにはチェルフィッチュのように、ときにはク・ナウカのように提示する。伊東高校の卒業生だというSF作家・鈴木いづみのイメージも、生理、童貞、ファックといったおよそ高校演劇的ではないことばも選び抜かれたもので、高校生が高校生という役柄でそういうことばを発するのが好きか嫌いかはさておき、作品の放つアナーキズムに寄与している。

 「幕が上がらない」というタイトルは、高校演劇関係者なら誰でもわかる、高校演劇礼賛青春映画「幕が上がる」のパロディである。アンチ「幕が上がる」の立場をとることで、高校演劇という既成概念、手垢のついた青春イメージと対決する図式だ。映画のキャッチフレーズ「私たちは、舞台の上でなら、どこまでも行ける!」はこの戯曲にも登場し、そのフレーズを否定することで、舞台上で演じない『幕が上がらない』の根本となる、はずである。ところが、ここが弱い、と、私は感じる。観客席だけで演じるときに、出演者たちの思いのベクトルは、幕に、幕の向こうの舞台に向かっているはずなのに、そのベクトルが見えてこない。それでは、高校演劇史上、観客席のみを使用した芝居はなかったでしょ、というワンアイディアで終わってしまう。「いや、どこまでもは行けないし」というセリフにどう集約していくか、そこが観たかった。

 もうひとつ、「行くぞ!全国!」という映画キャッチフレーズを、女3りこがラストシーンでどう語るのか。(関東大会で観たときには、どう語ったのかキャッチできなかった。)今回、全国大会で観て、メタで伊東高校演劇部が登場する作品で高校演劇を扱うなら、伊東高校演劇部が全国大会の出場権を得てしまった事実をメインに戯曲を書き換えたら、どんなに面白いだろうと思った。そもそも自分たちの高校を卑下する自虐ネタがセリフの大半をしめる訳だが、他の全国大会参加校や観光地・広島に触れるだけでよかったのか? 「行くぞ!全国!」の否定を全国大会で演じるという、それこそ前人未到のアナーキズムは、そこでこそ発揮されるべきではないのか? 
 鴻上尚史氏の名作『朝日のような夕日を連れて』が、再演の度に進化し続けれなければならない宿命を背負っているように、『幕が上がらない』は大会のステップを上がることに、高校演劇を照射する角度が変わっていったら面白い。そして、上演台本が変わり続けるという反事務局的な姿勢をは、まさに、高校演劇による高校演劇への挑戦となる。

 「借景芝居」を提唱し、劇場の舞台以外の場所でときおり上演する私としては、観客席を演技空間とした舞台効果上のデメリットより、観客席で演じることによってどれだけその芝居が成功したかのメリットを本当は語りたい。今回、季刊高校演劇に掲載されている戯曲『幕が上がらない』を拝読して、劇場入り口に関わるラストのト書きに書かれている内容は、全く受け取れていないことがわかった。ほとんど誰にも見えない位置で、観客にそこを観ようと思わせることのができないまま、この芝居は終わっていたのだ。そのト書きは、とことん真剣で、しかも歪に美しい高校演劇愛に満ちている。今更読んでもどうしようもないラブレターを、開けてしまったような気持ちになった。

追記1
私は、この『幕が上がらない』の存在を知ったときどうしても観たいと思い、関東大会に出かけたので2回観劇している。アナーキー、斬新ということで言えば、筑波大学附属駒場高校の『ガンジス川を下る』が断トツであったと思う。

追記2
ジャンル分けされることは心外だろうが、たとえば、2010年宮崎大会の中央大学付属(東京)『(急遽演目を変更いたしました)』(臼井遊/作)や、同大会で口蹄疫問題の影響で映像出演となった鹿追(北海道)『平成21年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品」(井出英次/作)が、この高校演劇挑戦劇というジャンル(?)の先達であると感じた。用意された舞台でそのまま「いわゆる高校演劇」を上演することに「待った」をかけ、上演すること自体に疑問を呈しつつ、メタ高校演劇作品を作るという点で。
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●上演4
北海道北見北斗高等学校「常呂から(TOKORO curler)』北見北斗高等学校演劇部・新井繁/作

 curlerはカーリングをする人なんだけど、『北の国から』の「から」と、かけ言葉になっている訳で、ケイコちゃん、これはもう、なんというか、北見北斗高等学校演劇部・新井繁版『北の国から』な訳で。♪るーるるるるる

 綿密な取材を元に紡ぎだした良質のフィクションである。夢を追う父、夢を追うことを躊躇する娘。カーリング普及の道の苦難よりも、人の気持ちの機微と暖かさに焦点を当てているのが良い。それを、デリケートな演出で丁寧に作り上げている。
リアルな衣装で、部屋の温度(暖かい部屋も2階の寒さも)、零下の外気のしばれ加減もきちんと伝わってきた。特に、屋外カーリング場の寒さ、そんなはずはないのだが、吐く息の白さもポットのお茶の湯気も見えるようだった。
 
 とにかく、父と娘・由美子のラストシーンの美しさに尽きる。情景も、登場人物の心も。あの転換後のカーリング場シーンをさらに際立たせるために、他の場面をすべて居間と店だけにできなかったろうか? 先輩との駅のシーンを設定せずに、由美子の恋を描くことはできなかったろうか?

 常呂はシバれるのにあったかい。いや、シバれるからあったかい。いい塩梅の北海道弁のあたたかさ。信念などというかっこよさとは程遠い印象なのに、カーリングの普及に夢中になり続けるお父さんのキャラクターは実に魅力的だった。このお父さんに会えて、良かった。
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●上演5
広島市立舟入高等学校「八月の青い蝶」周防柳/作,須﨑幸彦/脚色

 沼田高校とはまた違ったタイプの原爆劇を広島大会で観せてくださって、ありがとうございます。原作である小説「八月の青い蝶」の美しさが、ヨーロッパ映画の小品ようなテイストで演劇「八月の青い蝶」に結実していたと思う。リアルすぎないトーンがほどよく、少年・亮輔の淡い恋心、少しずつ大人になっていくデリケートな精神状態に、私は感情移入することができた。

 映画ならば、1時間40分くらいの作品として、ゆっくりたっぷり時間が流れるだろうか。1時間の演劇として脚色するときに、原作の過去と現在をいったりきたりする手法をそのまま舞台にのせるのがよいのか、正直なところよくわからない。テキレジがどうあるべきか、小説とじっくり比較しながら考えたいところである。

追記
内木文英賞は、原爆劇への長年の取り組みという受賞理由を鑑みるに、舟入高等学校と沼田高等学校の2高同時受賞とし、舞台美術賞は阿波高等学校にあげたかったと思う。

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8月2日(火)
●上演6
岐阜県立岐阜農林高等学校「Is(あいす)」岐阜農林高等学校演劇部/作

 この作品を観ることができて、高校演劇がますます好きになったし、広島大会を観に来て本当によかったとつくづく思えた。とにかく、観劇している間、ずっと幸せな気持ちだった。楽しい。次のシーン、次のシーンとぐんぐん引っ張られ、そのままラストになだれ込む。
 舞台美術、特に、バスケットのゴールの仕掛けと自動車は秀逸。戯画化されたキャラクターも単純すぎると感じる間もなく、ひたすら愛おしい。少年の存在は不要かも最初思っていたが、ラストへの展開で、これもありと思えた。

 青春はこうでなくっちゃと膝を打つ。同時に、一時間、一瞬たりとも立ち止まらないために、どれだけの技を駆使したのか、その技術と仕掛けについて考えさせられる。これでもか!のジェットコースター・エンターテインメントと、テーマを深く考えさせない流れるような展開は諸刃の刃だ。岐阜農林高等学校演劇部は、いつも、どんな芝居を作りたいのか、その行き先をしっかりと見据え、足取りは確信に満ちている。
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●上演7
北海道清水高等学校「その時を」北海道清水高等学校演劇部/作

 本当に高校演劇ラブな気持ちにさせてくれた作品である。笑いのセンスがことごとくツボ。特に、シーン1からシーン2へのつなぎで、登校時の自転車シーンから教室に変わるところが、最高にツボで、そのポイントで心をわしづかみにされ、そのまま彼らの世界に連れて行かれた。見事な導入である。

 来年で廃校になるという設定が、効いている。どんな高校生も高校生活はもう二度とないのだけれど、その終わってしまう感が半端ない。この学校がもうなくなるから、自分たちが最後の卒業生だから、やり残した青春がないように、前向きに、精一杯高校生活を謳歌しようとしている。だけど、そんな風に見せないで、ぬるーく楽しんでいる風を装うイタさもまた、青春だったりして。

 審査をさせていただくときに、「部員の仲の良さが伝わってくる舞台で、本当に楽しい演劇部なんですね」というのは禁句である。ほめることがないから、そんなことを言っていると思われる。だが、この芝居に関しては、心からそう思う。そして、それが、芝居の切なさ、優しさに直結している。たった7人しか生徒がいない学校という設定の登場人物が、互いを思いやる世界は、清水高校の演劇部員たちが、この芝居をつくるために、互いを思いやり、尊重し合う優しさに強く強く裏付けられている。素舞台の何もない空間。部員たちの演劇の力で、その空間が教室になり、放課後のグラウンドになり、川になる。登場人物たちが愛してやまない、その高校になる。

 一つだけ。タイトルの『その時を』の硬さが気になる。なにかしらもっといいタイトルがあるはず、と、観劇以来ずっと心にひっかかっているのだけれど思い浮かばない。『ニジマス』とか? いやぁ、違うなぁ・・・。
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●上演8
佐賀県立佐賀東高等学校「ボクの宿題」いやどみ⭐︎こ〜せい・佐賀東高校演劇部/作

 戯曲を読み直し、泣いてしまった。上演を観たときもすごいと思ったが、なんだ! この戯曲のすばらしさは! 上演時、私は、息子の物語のふりをした父親の話だと受け取った。しかし、読み返してみると、息子と父親、ふたりの物語にきちんとなっている。そして、ちょっぴりシニカルなユーモアと問題提起が巧みに表裏となっていて、セリフがすこぶるうまい。参りましたっ!
 ボクの宿題は、父さんの宿題で、でも、やっぱりボクの宿題で、ボクも父さんも愛川くんで、父さんの過去はボクの未来で、でも二人はやっぱり別々の人間で、この迷宮がとことん気持ちいいのだ。

 なぜ、私は、息子の物語のふりをした父親の話だと受け取ってしまったのだろう? 観劇時を思い出してみる。息子と父親以外の、誰がどの役を兼ねて演じるかが、わかりづらかった。ウチノクラ先生が、本当に父親の大学時代の友人なのか、そうではないのかの意図を掴み損ねた。もしかすると、この戯曲を何人で演じるか、何人で演じるために書いたのか、という、卵とにわとりのよう問題が生じたのだろうか? 
 12本の中で、今、一番、もう一度観たい芝居である。いろいろ確かめたいのもあるけれど、「未来の話をするよ」というあのセリフを聞いて、また、あの高揚感を味わいたいのである。
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●上演9
埼玉県立芸術総合高等学校「解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話」オノマリコ/作

 美しい芝居である。演出も、戯曲も。本当に美しい芝居である。とても残念なことに、私はこの作品世界になかなか入っていけなかった。なぜだろう? 「私たちは美しい世界をつくります。美しく演じています」という意識が、常に頭上に高く掲げられていて、それが、なんだかバリケードのように感じられたのかもしれない。大学、という設定でなければ良かったのか? 抽象名詞で呼び合う世界観と大学生活を描く様子が、私の中では結び合わなかった。そこが戯曲の世界観としてもっともすぐれているところであるはずなのに。
 解体されゆく、滅びゆく、散りゆくもののあわれの美しさより、咲き誇る美しさが勝っているようにも感じられた。いずれ、美しいのだけれど。
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●上演10
徳島県立阿波高等学校「2016」よしだあきひろ/作
  
 『2016』は、2016年という今、現在を、30年前の1986年から俯瞰して見よう、しかも、それを、2016年の高校生たちが演じようという、大胆不敵な試みである。ゴルジ体という男性教師とサッチャーと呼ばれる白衣の教師(?)が、両方とも本人として登場し、二つの年代をつなぐ役割を果たす。
 
 なるほど、この方法ならば、チェルノブイリを他人事として何も学ばなかった、さらに、3・11のあとも学ぼうとしていない日本人を、まさか、そんなはずないよねっという立場から淡々と描き出すことができる。実は、かなりメッセージ性の強い作品なのだが、戯画化して演じられる人物たちの造形もあって、メッセージを押し付けることなく、きっちり芝居として観せてくれる。

 戯曲から、私が捉えた構造は以下である。
 2016年で語るゴルジ体の思い出話から、1986年にシフトしていく。ラストは、この同じシフトの時間を経て、2016年に戻る。1986年にいる科学部の連中が、文化祭で「2016の世界・科学部」という展示をやろうとしている。サッチャーは、1986年から、2016年になった今なお、放射能を気にし、雨に注意しろと言い続けている。
 そして、残念ながら、芝居を観ただけではここまでわからなかった。困ったことに、誰が誰なのか、よくわからなかったのである。
 いくつか原因がある。名前がわかりづらいこと。1986年当時のヤンキー・スケバンが記号としてあまりに強く、1986年当時の普通の高校生と2016年の普通の高校生のキャラわけができないこと。ゴルジ体が思い出を語るという設定でするライブのトークと、1986年当時のライブのトークが全く同じということが戯曲上のキーなので、ゴルジ体が30歳年とっているということが表現しづらいこと。
 また、戯曲での表記によって生じた疑問なので、実際の上演時にはどうしていたかわからないのだが、ミーナに暴行を加える子分たちに、ナンノも入っているのか? 上演時にもあれっと思ったのだが、科学部のプレゼンにミーナも入っているのはどういう演出意図か?

 1986年から2016年を俯瞰するという仕掛けが、あまりに強く、面白く、それゆえに、それぞれの人物や人間関係を描くドラマ部分が弱まってしまったのが、とても残念だと感じた。
 本当の未来ではない、こうあって欲しい(しかも、ちょっとカリカチュアしてプレゼンテーションする)すばらしき未来を描くための照明がやたら美しく、足を踏み入れてはいけないという設定の校舎の片隅の狭さもこみいっている感も不思議な強さを放っていて、得体のしれないパワーに満ちていたことは特筆すべき。
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8月3日(水)
●上演11
和歌山県立串本古座高等学校「扉はひらく」出口耕士朗・藤井良平/作

 観終わって、生徒講評委員の話し合いを聞きに行ったら、登場人物のヤマグチくんとムラタくんのどちらが孤独か、それぞれが語っていた。みんな、ぼっち(=孤独)に対して切実な恐れを抱いていた。私は、一見友達がいて、その実、むりやり合わせているだけのムラタくんの方が圧倒的に孤独だと感じていたが、高校生の意見はきれいに二分していて、それがまた、この『扉はひらく』という作品の訴求力と面白さを痛感させてくれた。

 実に見事な二人芝居である。教室、エレベーター、教室の3場仕立て。二人が直接話すエレベーターのシーン以外は、上手と下手にかなり離して置かれた教室の机と椅子があり、同じ教室にいる二人が直接話すことはない。置き道具だけがポツンと置かれ、舞台上のその距離は、二人の心の距離まで表現している。そして、それぞれが一人芝居をしているかのようなこの冒頭の教室シーンは、否応がなしに、このあと、二人がどんな接点を持つに至るのか期待させる。
 そして、メインとなる、エレベーターのシーン。明かりでエリアを区切っただけのエレベーターに、クラスメートとは知らずに乗り込む二人。関係性の変化、ステイタスの変化は、二人芝居の醍醐味をたっぷり味あわせてくれる。
 ムラタくんの韓国語を話すシーンと、ヤマグチくんが映画『ノッキング・オン・ヘブンズ・ドア』の話をするシーンが圧巻だ。不勉強なことに私はこの映画を知らず、あらすじもタイトルもあまりにこの芝居にぴったりだったので、架空の映画をこの芝居のために作り上げたのか、本当にあるのかどっちだろうとさえ思った。そして、どっちでもいいやと思ったのだ。観客が映画について知らないことはなんのデメリットにもならず、ヤマグチくんの語りで、ムラタくん同様にその映画のイメージにも、ヤマグチくんの持つ世界にも引き込まれていったから。

 ラストは観客に委ねられている。登場人物のヤマグチくんとムラタくんが友達を得て、幸福な高校生活を送りましたとさ、めでたしめでたし、という安易なハッピーエンドには収めないという、演じ、脚本を書いた二人の強い意志が伝わってくる。その曖昧さは、とことんリアルなのである。だからこそ、観客は、二人の友情が続いて欲しい、互いを救って欲しいという強い願いを持つのである。

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●上演12
山梨県立白根高等学校「双眼鏡」河野豊仁/作

 双眼鏡で見られているのは、観客自身である。そう思わせる仕掛けの一人芝居だ。
沙織に共感しようと努力すればするほど、どういう芝居を作りたいからなのかわからなくなる。時計の針を自分で動かすこと、一人芝居の仕掛けを明らかにする前の誕生パーティごっこは、すべて虚言ですよという観客へのヒントなのだろうか? 誰も来ない、待っているふりをしながら実は待っていないゴドー。
 「引きこもり」は本当なのだろうか? 「引きこもりごっこはこれでおしまい。」「ありがとう」「本当は誰かに私を見つめて欲しかっただけなの」は、信じていいのだろうか? 最後の父親に呼びかけるセリフは、どういう意図で作家は書いたのか?
  1時間、一人で生き続ける沙織の強さ、1時間、観客を翻弄し続ける芝居の強さ。緞帳がおりるとき、「引きこもり」の少女への共感や同情をあきらめ、観客である私は、沙織に敗北したと感じた。
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# by nabegen-usagian | 2016-08-10 16:33